ストレスは食事と一緒で体に必要なもの。

ストレスは発散するもの? ストレスは消化するもの?

「○○○でストレス発散」「ストレス性○○○症」ストレスに関するフレーズには、ストレスは溜まるもの、だから時々発散しなくちゃいけない、と言う意味合いが読み取れますが、僕は、ストレスは食べ物と一緒だと考えています。

人間は「おぎゃ」と生まれて落ちたところから、重力という最大のストレスと付き合い暮らし始めます。お腹の中はどんなにか住みよかったことか。段々と住むには狭くなった母体から追い出された我々には知るよしさえありませんが、重力というストレスだけは万人に等しく与えられているわけです。

生まれて寝たきりで居られたのもつかのま、生物の本能からか肥大した前頭葉の悪意によるものか、学習によって段々と立ち上がり、歩き走るようになりました。「かわいいわね」などと言われてその気になっていると、雑多な知識を覚えさせられ始め、「何で出来ないの」などと叱咤され、「これ食べないと大きくなれないわ」などと脅され、どうにか親離れしてやっと一息と思いきや、社会の荒波は満員電車、馴染まない仕事、雑多な人間関係、増えない預金とストレスの波状効果を我々に与えそんな環境で私たちは生きているとも言えます。

これだけストレスがあれば「発散」どころではなく、すでに僕などストレスで押し潰されているわけですがしぶとく生き残っています。そこで僕は考えたわけです。ストレスは食事のようなものだと。

重力は主食であるご飯です。毎日食べても、飽きない米の飯。仕事や対人関係ほか雑多はおかずというわけです。おかずにも好き嫌いがある。毎日ご飯と食べて飽きないもの、味噌汁や煮物が家族という人は幸せな人。いっぱい食べてもちゃんと消化して身になる。友人関係は難しい、時々食あたりしますから気をつけて食べ過ぎに注意が必要。

仕事や対人関係は食わず嫌いも結構あって、歳を重ねたら「アラこれ結構いけるんじゃない」と嗜好の変わることもあり、趣味やスポーツは食べ過ぎて飽きてしまったり、美味しいと思って食べた綺麗なスウィートには毒が入っていたりする。

まあ食べてみないとわからないことが食事とストレスの似ているところでしょうか。食わせず嫌いで、偏食させていると病気になりやすい体質をつくるのも、食事とストレスの似ているところですね。

「うちの子は野菜が嫌いで」
「お菓子はいっぱい食べるんですよ」
「私が好きで買っちゃうんです」
「実は私が嫌いで」

食事の好き嫌いは、全て親の責任などとは言いません。親の出来ることなんて、限界が有って当然。ストレスへの対応も、親が全てをしてあげられるわけじゃない。自分たちがそうであったように、子供の世界は大人が入っていけないこともあります。色々なところに入り込んで、笑ったり笑われたり、傷ついたり傷つけあって、認められたり認めたりしながら、子供も大人も成長します。

ただ、帰ってきたときに安心して食べられる食事があれば、一時の食あたりもすぐ治るようにストレスも消化できるのではないでしょうか。

ストレスを病気の原因にしはじめると、仕事もストレス、上司も子供も旦那も近所もと周りがストレスだらけになってきます。たしかに周りはストレスだらけかもしれない、でも特別な人生など有りはしません。ストレスに負けない、などと頑張るよりは、ストレスを消化する能力を高めることがストレスを病気の原因にしない最善の方法でしょう。

その為には「養生」することが、とても大事。暴飲暴食、夜更かしは程々に、体調を整えること、適度な運動をすること、快眠快便などは養生の基本。もっと大事なことは、生活のチャンネルをいっぱい開いておくことです。一つのことに集中することは悪いことではありませんが、勤勉実直、仕事一筋の人が退職後にボケちゃったなんて聞くと、ストレスが未消化で苦しかったのね、ストレスをストレスで押し流していたのかなと思います。

一人の心にはたくさんの顔があります。一つの顔だけで長い時間をすごしていると、自分の他の顔、他の能力や欲求を押し殺してしまい、結果的に、自虐的、他虐的行為によって、自分自身を苦しめたり、多重人格を引き出したり、ボケに逃げ込んだりするのではないでしょうか。

「私、長続きしなくてね、何をやっても」と言いつつ色々なことに顔を出す方がいますが、それって大事だと思いますよ。自分にあった事なんて、自分でもわからないものです。色々とやっていく内に、幾つか引っかかればチャンネルを増やすことになるのですから。

ストレスは、発散するものではなく、消化するものと考えると、体を大事にする「養生」することの意味合いが深まると思うのですが。