運動理論としての操体法。思想としての操体法。

操体法は楽に動かせる方向を探しながら体のバランスを回復させる治療法ですが、操体法を治療の方法としてだけとらえると私のYouTubeの動画を見て「マッサージをした時点で操体法ではない」とか「脚の長さを測定しているから偽物だ」【実際は見た目の下肢の長さを比べ体のバランス全体を観察しているので、ご意見された方の理解不足です】とか操体法に対する誤った狭小な見解を持たれることになります。
操体法で楽な方向に体を動かすことで体のバランスが回復することは私のYouTube『家庭でできる操体法(座ってできる操体法)』などを試していただくとすぐに実感できます。操体法は筋肉の緊張をほぐすために楽な方向に動かしますが実際の働きかけは筋肉の緊張を支配する脳に対する働きかけです。その意味において物理的にストレッチングで筋肉の柔軟性を回復させる、物理的にもみほぐすことで筋肉の柔軟性を回復させようとするアプローチなどとは根本的な理論の違いがあります。

“操体法”は楽な方向に体を動かすことで脳から発信されている過度な緊張を強いる信号を止め脳の情報そのものをニュートラルな状態へとする運動療法です。そこに「動診」「動かす診察」としての役割も生まれます。“操体法”で改善される症状は脳の運動野に関連する筋肉のアンバランスな緊張状態です。したがって内科的な疾患から誘発される内臓反射的な痛みの改善にはなりません。普段のリラクゼーショントリートメントに“操体法”を取り入れていただくメリットもそこにあります。外傷的または生活動作でのアンバランスな筋肉や関節の緊張で痛みがあるのか、または内科的疾患が原因で痛みがあるのかの見分けが“操体法”で施術することで判断ができます。どのような内科的原因かわからなくても異常を察知し速やかに内科的診察を薦めることはできます。
脳梗塞・心筋梗塞・胃潰瘍・胆石・尿管結石・急性白血病・大動脈解離・癌などの病気でも始めは運動機能の痛みを訴え来院される方は多くみられます。もちろん操体法での施術ではほとんど改善の傾向はありません。また内科的疾患から誘発される運動機能に出る痛みは安静時にも痛みが継続し痛みを感じない姿勢が無いことも特徴です。

運動理論として操体法をとらえると筋肉の働きと脳の関係を新しい角度から考えることができます。脳に痛みのストレスを伝えないように動かす操体法の考え方はスポーツの練習方法を進化させます。例えば操体法的に考えれば、ストレッチトレーニングでも自分自身が硬い痛いと感じている部位からストレッチを始めるよりも楽にできる部位から始めることで安全に簡単に柔軟性が回復します。また練習メニューも不得意な動きから始めるよりも特異な動きからウォーミングアップを始めると体が動きやすくなります。操体法的に考えれば学習も得意科目から始めたほうが学習成果は高まります。マッサージの方法も操体法的に考えれば痛みを感じるような強い指圧やもみほぐしはせずに筋肉を揺らすようなマッサージが効果的なことが理解されます。日常生活の動作でも操体法的に考えれば偏った負担を避ける生活動作がバランスを保つことが理解されます。
人間は言語を獲得し道具を使う生活を始めた時から二足歩行のアンバランスな状態になりやすい身体になったともいえます。まして現代社会の生活様式ではフラットな場面での単純な働きが多くなり、身体のアンバランスな状態をリセットし脳の働きをニュートラルな状態に戻すためには意識的な運動時間が必要になります。そこに操体法的な運動理論が必要になります。
辛いことを強いて身体を鍛えることは操体法的ではありません。自分は楽をして辛いことは他人に任せるという意味ではありません。目標に向かって努力をするときに人より辛い練習をすれば強くなれると考えていると体を壊す練習になります。人とは違う自分に合った継続できる練習方法を探し成果を確認することが操体法的に考えれば必ず見つかります。具体例を一つ挙げると歩き方です。一歩一歩を意識することで絶えず自分の体感バランス全体が脳に意識され意識と無意識のフィードバックを繰り返します。脳が無意識の中でも体感バランスを保てるようになると走るフォームも安定し体幹筋を上手く使えていることを意識できるようなります。

私が操体法を長く診察の基本としておこなってきて実感していることは操体法が私の思想の根幹になってきたということです。操体法を運動理論としてとらえると、意識的な脳への働きかけと無意識の脳の働きのフィードバックによって筋肉の働きをニュートラルな状態にすることが操体法理論だと言えます。楽な方向を探しながら体のアンバランスな状態を回復させる考え方は運動ばかりではなく私たちの思考としても大事なものだと私は考えています。「安らかに見る」という表現があります。言い換えれば心穏やかに見るということです。とげとげしい心で互いが接すると争いが生まれます。ディベートでは解決しない問題もディスカッションなら解決することもあります。お互いの生き方を認め合い楽な方向に関係性を導くような話し合いができれば世界は変わると考えます。不遜な態度で生きれば不遜な友人しか寄ってきません。不遜な友人は裏切り方も不遜です。

今の私に思想体系として操体法をとらえるまでの論理の展開はできません。しかし多くの方が操体法という誰にでも体感できる治療法を試すことで、今までの運動理論を見つめなおし、生活の中に操体法的な思考を取り入れることで体感できる思想としての操体法的思想の片鱗に触れることはできると確信しています。