魂は心がつくる透明な絵の具

魂は、透明な絵の具です。素敵だとは思いませんか。前回「体は地球から授かった魂の揺りかご」「鍵はファンタジー」などと書きましたが、僕のそういう考えの根っこは、『魂は心がつくる透明な絵の具』だと感じているからです。実は、「感じる」というよりも「そうだと知っている。知ってしまった」と言う方が、僕の感覚的にはあっています。直感的に「そうだ」と閃いたという感覚です。

ことわざに「一寸の虫にも五分の魂」とありますが「小さな虫にも、命があるのだから、無駄な殺生をしてはいけない」という意味で使いますね。僕は解釈が違うと感じたのです。「小さな虫にも、体から溢れる魂があるのだ」という教えではないのかと。

私たちは山や海岸、雄大な自然を望んで美しいと感じます。手入れの行き届いた田畑や山林、植木鉢の花にも美を感じます。人工的な建築物や美術的な構造物にも美を感じます。伝統工芸品やその道具にも、声や音にも遠くの星にさえも美を感じます。では美とは何なのか。私たちの美を感じるセンサーは何を捉えているのか。

それは、遠くは億年といわれる地球の歴史に塗りこまれた魂を感じているのではないか。近くには、50年、百年、千年、一万年前の先達の思いという「魂の透明な絵の具」を感じているのではないかと思うのです。そこには、人間本位ではなく、自然の中で暮らす全ての先達の魂を、透明な絵の具として感じることの出来る、私たちの美のセンサーが働いているのです。そして私たちの時間の感覚を超える自然のいとなみには美のセンサーが畏敬とか畏怖を感じ取り自然への信仰や神への信仰をもたらすのです。

また、怨念を鎮めるためにも信仰はもたらされます。梅原猛先生いわく、日本の神社仏閣は法隆寺や出雲大社をはじめ、魂鎮め、怨念鎮めの為の神社仏閣が数多くあるとのこと。古人が怨念や怒りのどす黒い魂の色を感じ恐れたことの現われと考えます。

今生きている地球の生物全ても魂という透明な絵の具をつくっているのだと感じます。魂という透明な絵の具は、心がつくっていて、ウキウキした心はふわふわした色を、はつらつとした心は鮮やかな色を、恨みの心は沈んだ色を、もちろん眼に見て何色と言えませんが、私たちは感覚として捉えています。

私たちが、心と体のつながりを意識できるように、魂という透明な絵の具は時間と空間を越えて私たちの意識に働きかけてくるのだと感じています。

キャンバスを失った魂

魂を心がつくる透明な絵の具だと考えると絵を描くためのキャンバスが必要になります。ある人にはそれが田んぼであったり森であったり文字通り絵であったり、音符や音、書籍、器、道具、家、食事、あらゆるものが魂のキャンバスになりうるのだということを私たちは知っています。「心を込めて」「魂のこもった」いう表現で感じているのです。

しかし、同時に私たちは継続した時間を越えるキャンバスを、失いつつあることも知っているのです。死が魂のキャンバスを奪うのではありません。生が死に転じても、キャンバスに塗られた魂の絵の具は色あせることはないのです。

僕の恩師、藤本敏夫氏は末期癌で闘病の末59歳で亡くなりました。病床においても未来への理想を求めて活動していました。死の間際は、病床で夫人が「吸って吐いて」と、マラソンランナーの同伴者のように生きるための呼吸を励ましていました。親族が揃うと恩師はマスクを外し「もう、いいだろう」と一声はっきりと言って呼吸を止め死を迎えました。

恩師の死に顔は満足げで美しい仏性に溢れていました。その瞬間、死の瞬間から恩師の「魂の透明な絵の具」は多くの人に分けられたように思えるのです。今でも恩師の著書、農場、記憶の中の言葉に魂が感じられます。

死が魂のキャンバスを奪うのではなく、次に繋ぐ時間と空間の継続性を奪われたときに、私たちは魂のためのキャンバスを見失うのです。

戦争によって時間と空間を奪われることは悲しいことです。美しく塗りこまれたキャンバスが木っ端微塵になり悲しみの色だけが残されます。不死鳥のように鮮やかな色彩を取り戻すためには多くの時間と努力が費やされます。戦争以外の環境破壊にも同じことが言えます。さらには、もっと身近な私たちのライフスタイルにも、次に繋ぐ時間と空間の継続性を私たちは奪われているのです。

僕は、分業化というライフスタイルも、私たちの時間と空間の継続性を奪い、魂のキャンバスを見失わせているのだと考えています。

分業化と心の分裂

ホモサピエンスになってから4万年、人類はつい最近まで一日の大半を食料を求めるために費やしてきました。もちろん道具や知能知識の発達は、狩猟、採取、飼育、栽培を効率化させ、食料を蓄え、さらなる道具の発達や集落の形成を加速させ、文化をつくり文明社会を創り出したのですが、産業革命以前の多くの人々は一日の大半を食料を求めるために暮らしていたと、または食料を得るために職業を分担していたと言えます。

現在の先進国と呼ばれる国々は豊かさと便利さを享受しています。田舎で暮らしていてもパソコンはあるしインターネットで情報の検索は出来る。世界中の商品を選ぶことも、遠くに住む友人と電話で話すことも、会うことも出来ます。

何よりも、水や食べ物のために一日を費やすことなど考えもしない生活をおくっています。便利な豊かさこそが、人間の意識を開放し自由な社会をもたらすのだと信じた結果に今の社会があります。

しかし同時に、私たちは身の回りのことさえ、使っている物さえ理解できない暮らしをしているのです。「水道の水はどこから来るの。電気は、ガスは。野菜はどうやって出来るの。この魚はどこから来たの。カップラーメンは。テレビはなぜ映るの。携帯電話は。排水はどこに行くの。ゴミはどうなるの。」答えられない物に囲まれた生活。「それで、いいんじゃない。困ってないもの。」と言いつつ生活を取り巻く不安はどこから来るのか。

爺ちゃん婆ちゃんの世代、戦前の世代は知っています。朝起きたら水を汲む。火をおこす。米を研ぐ。おかずをつくる。僕はよく卵や豆腐を買いに桶を持ってお遣いしました。ゴシゴシ洗濯する。近所の子供は皆で面倒をみる。どぶ板が壊れたら近所皆で直す。何かと共同作業の多い生活でした。思い出すとゴミなんて、ご近所合わせて今の一軒分しか出ないような生活でした。身の回りの物は皆が理解できて直せる物が多かった。そこに在った生活は分業された暮らしではなく、分担によって成り立つ暮らしだった。

職業の分業化は密接に暮らしの分業化につながり、意識の分業化につながりました。大人はお金をかせぐ。子供は勉強する。年寄りは旅行する?

「子供は勉強してればいいのよ」「家のことはお前に任せた(ちょっと古いか)」「子供の教育は学校で、モラルも学校教育で」「年寄りの世話は税金で」「旦那の飯はコンビニで(ハハァ)」「政治経済は政治家に」「いやいや、経済は学者に…」「体のことは医者に聞け」「いやいや、私の体じゃありませんから」「ところで、お隣はだれだっけ」

自分という存在を社会の中で分業された所に置いていることで専門外のことはわからないで通してしまう。結果生きている自分という存在意義を希薄にしてしまい「私はだあれ」と悩んでいる。私という心が創り出す魂の絵の具をどこに塗り重ねていけばいいのか誰がつないでくれるのか見失っている。

僕は職業の分業化が生活と意識の分業化につながり、心の分裂、魂のキャンバスを見失うことにつながっているのだと強く感じています。

21世紀は、「便利な豊かさ」を求める社会から「命の豊かさ」を求める社会に転換しようとしていますが、私たちは分業して生きているのではなく分担によって支えあっているのだという意識が「地球の命の豊かさ」につながり、魂という透明な絵の具の為のキャンバスを創るのだと信じています。心が体とつながっているように、魂は地球とつながっているのだと信じています。

「操体法で体とコミュニケーション」で書き始め、「心と魂」に話しを進めてしまいました。自分の体とコミュニケーションすることは「心と体」のつながりを確認するための大事なことであり、心と体のつながりは心と魂につながり、魂は時空を超えた地球とつながります。

まずは養生の一つとして操体法で体を動かし、体とコミュニケーションしましょう。心と体のつながりがきっと見えてきます。体は老い病み、いつか朽ちていくものです。しかし今ある体を大事に思い使わせていただくことで、老い病んだ体をいつくしむことが出来る自分が先に在るのではと感じています。10年後のあなたを守ってくれるのは今日からのあなたです。(了)