子供は授かり物、体は借り物

「子供は天からの授かり物」と言いますが、これは、「自分の子供ばかりでなく人様の子供も天からの授かり物だから大事にしなくちゃならない」ってことです。

核家族化の弊害で、子供を育てられない親が増えていますが、もともと、子供は親が育てるより、爺婆が育てるのが普通だったのだと考える人も多いようです。たしかに桃太郎も金太郎も昔話の主人公はお爺さんとお婆さんに育てられて立派になって活躍するわけで、若い親に育てられていたらやさしい立派な青年に育っていたのか怪しいわけです。立派な暴れん坊で、終わっていたかもしれません。

僕は、幸いにお婆ちゃん子で立派に育ちましたが、確かに、自分の子を育てると、「育てているよりは親が育てられている」「親になっていく」という感じが強いです。長男の立場はどうなるんだと息子に言われそうですが「あの子」のときはアレが失敗だったから「この子」はこうしようなんて親も試行錯誤するわけで親の言うことが全部正しいなどと思っていると人生あやしくなりますので子供はみんな正しく反抗期をむかえる訳です。

子供を通して生き方を学ばせていただいている身としては「子供は授かり物」と実感し感謝しております。

ところで、「授かり物だった僕の体は誰の物」と長く疑問を持っていたのですが、患者さんを治療させていただくうちに「体は借り物」という概念が、だんだん強くなってきたのです。体は授かった借り物です。体を「神様からの贈り物」と考えてもいいし、「遺伝子の箱舟」という科学者もいますが、僕は「魂の揺りかご」だと感じています。人は何処かが痛むから治療を受けるのですが、それは、授かった体を大事に思うから治療を受けようと思うのであり自己愛の現われです。何よりも、自分を大事にする自己愛が無ければ同じように家族を他人を地球を愛することは出来ません。全ての人は自己愛を持っています。そのことを強く認めることが、「地球から借りた体を持つ魂の揺りかご」の務めです。

僕の友人にも、自己愛を認めない奴がいます。入院する退院する酒は止めない。苦しくなると、「オイ救急車呼んでくれ」などと駆け込んでくる。「俺なんか死んでもいいんだ」、と言いつつ病院には通う。「二度と苦しいなんて、言って家に来ないでくれ」と、言いつつも様子を見に行く友人たちがいることを彼はどう思っているのだろうかと考えます。

彼ばかりではなく、老人になったことを体力の衰えたことを苦に思う患者さんはとても多いです。「歳による症状です…(あきらめなさい)」などと言われれば尚更ですが体力の衰えを年齢のせいにし、社会性の欠如(暮らしの中での社会参加の減少)を年齢のせいにし、友人のいないことを年齢のせいにし、全てを年寄りだからと言い訳していたのでは毎日が楽しいはずも無く、家族に愛されるわけもありません。高齢者ばかりの話ではなく、若さがあっても同じことが言えます。家がもっと金持ちだったら、友達が悪くて、国が、政治が、経済が悪くて、そんな言い訳で、犯罪に走る人間の多いことは悲しいことです。

私たちの体は「地球から授かった魂の揺りかご」です。切れ間無く続く時間を旅する魂を繋いで行く揺りかごです。「人間は、死ぬまで働くようにと、神様は創ったんだよ」と、僕が患者のお爺ちゃんお婆ちゃんに言うと「そうありたいね」と言ってくれます。何かのきっかけさえあれば、気持ちが立ち直ることもあります。「そうありたいね」と言ってくれた瞬間から、リハビリが始まります。ちょっと体力がつくと、気持ちに自信が出ます。少しおだてたり抑えたりしながら、リハビリを続けると実際に相当の体力の回復が皆さんに認められます。

確かに、回復の期待できない病気もあります。しかし体は「地球から授かった魂の揺りかご」と考えれば、魂の成長までも止めることは誰にも自分自身にもしてはいけないことではないでしょうか。

「体は借り物」と考えて、私たちに体を貸してくれている地球自然に、レンタル料を払わなければと思えば、環境保護にも身が入るでしょうし、借り物だから大事に使おうと思うでしょう。体は「地球から授かった魂の揺りかご」と考えが及べば全ての命の大切さと自分の魂を次に繋ぐことの重要さに気づきます。

僕の体は「地球から授かった魂の揺りかご」「地球からの借り物」です。皆さんの体は誰のものですか。